はじめに
『るなしい』を読んでいて、最初はこう思っていた。
これは信者ビジネスの話だと。
仕組まれた嘘で、人を引き込んでいく物語だと。
でも、1巻の最後でその前提が揺らぐ。
「全部嘘」と言い切れなくなる瞬間がある。
郷田るなは、本当に“神の子”なのか。
それとも、すべては作られたものなのか。
この作品は、その境界を1巻の段階では意図的にぼかしている。
明確に“作られている”部分
まず、この物語にははっきりとした仕掛けがある。
儀式の場面で鳴るラップ音。
これは後から、2階でテープを流していることが示される。
つまり、少なくとも一部は演出だ。
さらに、るなとおばばは血を染み込ませたモグサを加工し、商品として扱っている。
ここには明確な「ビジネス」の意図がある。
信者に対して、特別な価値を付与するための装置。
この時点で、「すべてが本物」という解釈は難しい。
それでも否定しきれない理由
しかし、それだけでは終わらない。
問題は、説明されない部分が残っていることだ。
儀式の中で揺れる炎。
これについては、明確なトリックが提示されていない。
そしてモノローグは、それを肯定する。
まるで「火神が応えた」と言わんばかりに。
ここで読者は迷う。
ラップ音は嘘だった。
では、炎も同じなのか?
それとも、あれだけは本物なのか。
一部が嘘だと分かった後に、別の現象だけが説明されない。
この構造が、疑いを確信に変えさせない。
“完全な嘘ではない”という感覚
さらに厄介なのは、るなたちのやり方だ。
血を使ったモグサ。
儀式。
言葉の選び方。
それらは非科学的でありながら、
どこか「意味がありそう」に見えてしまう。
完全な作り話ではなく、
“何かしら効きそうな要素”を混ぜている。
だからこそ、信じてしまうのでないのだろうか?
るなは“信じている側”なのか
もう一つ重要なのは、るな自身のスタンスだ。
彼女は「騙している」というより、
最初から“そういうもの”として振る舞っている。
迷いがない。
これは演技にも見えるが、
同時に“信じている側”にも見える。
もしるなが完全に演じているだけなら、
どこかにズレや違和感が出るはずだ。
しかし作中では、それがほとんどない。
だからこそ読者は考える。
るな自身も火神の存在を心の底から信じているのではないか。
結論:嘘と本物を混ぜる構造
『るなしい』が不気味なのは、ここにある。
・一部は明確に作られている
・しかし、すべては否定できない
・そして本人もどこまでが本気か分からない
この状態が続く。
つまりこの作品は、
「嘘か本物か分からない状態」を作ることで成立している。
どちらかに振り切れないからこそ、
読者は判断を保留したまま読み続けることになる。
おわりに
郷田るなが“本当の神の子”かどうか。
その答えは、1巻では明かされない。
そしておそらく、はっきりとは明かされない気もする。
ただ一つ言えるのは、「完全に否定できない」という状態こそが、この作品の核だということだ。
だからこそ、この先を確かめたくなる。
それ自体が、すでにこの物語に引き込まれている証拠なのかもしれない。

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