※本記事は『スキップとローファー』8巻の内容に触れています。未読の方はご注意ください。
『スキップとローファー』8巻で、個人的にかなり印象が変わった人物が氏家くんでした。
決して愛想がいいわけではない。
人に対して刺々しいところもある。
そして本人も認めているように、他人と自分を比べて「自分のほうが上だ」と考えることで、自尊心を守ってきたところがあります。
あまり褒められた考え方ではありません。
でも、私は氏家くんの気持ちが少し分かります。
自分より下だと思える人を見つけて安心する。
そんな方法で自尊心を保つことは、決して珍しいことではないのではないでしょうか。
ところが氏家くんは、高校に入ってその方法が通用しなくなります。
自分より勉強ができて、自分が馬鹿にしていた人たちよりコミュニケーション能力も高い人間が普通にいる。
では、自分には何があるのか。
氏家くんが直面したのは、単なる劣等感ではありません。
「もしかして、自分には人より秀でているものが何もないのではないか」
という絶望だったのではないでしょうか。
それでも氏家くんは、生徒会長選挙に立候補します。
なぜ彼は、恥をかくかもしれない場所に自分から立ったのか。
そこに氏家くんという人物の面白さがあります。
氏家くんは「勉強ができる自分」で自尊心を守っていた
氏家くんは、中学生まで周囲から馬鹿にされることがあっても、勉強では彼らより上でした。
だから耐えられた。今は自分を馬鹿にしている。
でも、自分は勉強ができる。
いい大学に入って、いい会社に入れば、将来は自分のほうが幸せになれる。
そう考えることで、自分を守ることができました。
言い換えれば、
「自分には勉強がある」
ということが、氏家くんの自尊心を支えていたのだと思います。
ところが高校に入ると、その前提が崩れます。
クラスには自分より勉強ができる人がいる。
しかも、そういう人たちは人付き合いまで上手い。
勉強だけなら勝てない。
コミュニケーション能力でも勝てない。
では、将来会社が人を採用するとしたら、どちらを選ぶのか。
氏家くんが抱いた絶望は、かなり現実的です。
単に「自分より頭のいい人がいて悔しい」ではありません。
それまで自分を支えていた、
「自分には他人より優れているものがある」
という土台そのものが崩れてしまったのです。
「自分には何もないかもしれない」という怖さ
私は、氏家くんのこの感覚にかなり共感しました。
自分より上の人を見ると落ち込む。
逆に、自分より下だと思える人を見ると安心する。
決して褒められたことではありません。
でも、人間にはそういうところがあると思います。
「自分には価値がある」と自分自身だけで思い続けるのは、意外と難しい。
だから他人と比較してしまう。氏家くんの場合、それまでは「勉強」という分かりやすい物差しがありました。
ところが高校に入って、その物差しですら自分より上の人間がいることを知ります。
しかも、彼らは氏家くんが苦手としている人付き合いまでできる。
そこで初めて、
「じゃあ、自分には何が残っているんだ?」
という問題にぶつかったのではないでしょうか。
自分より優秀な人がいることよりも、自分には何もないかもしれないと思うことのほうが怖い。
氏家くんの苦しさは、そこにあるように感じます。
美津未を「下」だと思ったから安心した
そんな氏家くんが、最初に美津未を見たときの感情も印象的です。
氏家くんは、美津未を自分より下だと思っていました。
少し不器用そうで、自分と同じように人付き合いが得意ではなさそう。
だから隣の席になったとき、安心した。
かなり失礼な話です。
でも、この感情も私は分からなくはありません。
周囲に自分より優れているように見える人ばかりいると、自分と同じか、自分より下だと思える人を見つけたときにホッとしてしまう。
「ああ、自分だけじゃない」
と思えるからです。
ところが、氏家くんにとって残酷だったのは、下だと思っていた美津未が、実際には自分が持っていないものをたくさん持っていたことでした。
美津未は確かに完璧ではありません。
でも、真面目で明るく、人との関係を作ることができる。
周囲には彼女を理解してくれる人たちもいる。
そして生徒会でも前に進んでいく。
氏家くんからすれば、自分より下だと思って安心していた相手が、気づけば自分よりずっと上にいるように見えてしまった。
これはかなり苦しかったと思います。
でも本当は「上」も「下」もない
ただ、ここには氏家くん自身がこれから変わるためのヒントもあるように思います。
そもそも、人間に単純な「上」と「下」はあるのでしょうか。
勉強ができる。
友達が多い。
話すのが上手い。
人前に立てる。
そういった能力を一つずつ比べれば、確かに優劣はあります。
でも、それを全部まとめて、
「あの人は自分より上」
「この人は自分より下」
と人間そのものの順位にしてしまうから、氏家くんは苦しくなる。
美津未だって何でもできるわけではありません。
8巻では、志摩くんとの関係、友達との関係、生徒会、勉強と、いろいろなことを全部うまくやろうとして余裕を失っているように見えます。
氏家くんから見れば「自分より上」に見える美津未も、美津未なりに苦しんでいる。
だから氏家くんに必要なのは、美津未に勝つことではないのかもしれません。
他人を上か下かで見ることから少しずつ離れて、自分にも他人にもそれぞれ違うものがあると考えられるようになること。
もしそうなれたら、氏家くんはかなり楽になれる気がします。
なぜ氏家くんは生徒会長選挙に出たのか
だからこそ、生徒会長選挙への立候補が重要です。
氏家くんは、ただ負けるために出たわけではありません。
当然、出るからには勝つつもりだったと思います。
でも同時に、自分がどういう人間なのかを知りたかった。
今のままではダメだということも、氏家くん自身が一番分かっていたのでしょう。
自分には何ができるのか。
何ができないのか。
人前に立ったらどうなるのか。
美津未と同じ場所に立ったら、何が見えるのか。
それを知るためには、実際にやってみるしかない。
恥をかくかもしれない。
負けるかもしれない。
それでも、
「知らなきゃ変われない」
と思った。
私はここが、氏家くんの一番好きなところです。
自尊心は高い。
他人と比較してしまう。
負けることも怖い。
それでも、完全に逃げることは選ばなかった。
氏家くんは、自分の嫌なところを本人なりに分かっているのだと思います。
だからこそ、変わろうとしています。
「わかるよ」に腹を立てた氏家くん
生徒会室で、氏家くんは美津未に自分の気持ちを話します。
そして美津未は、
「わかるよ」
と答えます。
それに対して氏家くんは反発します。
氏家くんからすれば、美津未は自分とは違う。
明るくて、周囲に人がいて、生徒会長にもなった。
自分が欲しかったものを持っているように見える人です。
そんな美津未から「わかる」と言われても、
「あなたに何が分かるんだ」
と思ってしまうのは自然です。
ところが、美津未も怒ります。
「なんでわかんないって決めつけるの?」
そして泣いてしまう。
ここで初めて、氏家くんから見えていた美津未と、実際の美津未の間にズレがあったことが分かります。
美津未だって全部うまくいっているわけではない
このときの美津未は、かなりいっぱいいっぱいだったのではないでしょうか。
志摩くんとの関係。
友達との関係。
生徒会。
勉強。
どれも美津未にとって大切だからこそ、全部ちゃんとやろうとしている。
しかし、人間が使える時間も気力も無限ではありません。
中間考査の点数も少し落ちているように見えます。
それも、すべてに手が回らなくなっていることを示す小さな描写なのかもしれません。
氏家くんには、美津未が「何でも持っている人」に見えていた。
でも美津未自身は、いろいろなものを抱えて、器からこぼれそうになっていた。
氏家くんも同じです。
抱えているものは違う。
悩んでいる理由も違う。
それでも、2人とも自分の器いっぱいに何かを抱えている。
だから美津未は「わかるよ」と言えたのではないでしょうか。
ポケットティッシュを渡す距離感が氏家くんらしい
そして最後に、美津未が泣いているところへ氏家くんがポケットティッシュを渡します。
この場面も好きです。
急に優しく慰めるわけではありません。
美津未に近づきすぎるわけでもない。
少し距離を取ったまま、ティッシュを渡す。
すごく氏家くんらしい。人との距離を縮めるのが上手いわけではない。
気の利いた言葉をかけられるわけでもない。
それでも、泣いている美津未を放っておくわけではない。
氏家くんにも、ちゃんと氏家くんなりの人との関わり方があります。
それは美津未のような関わり方とは違います。
でも、だからといって劣っているわけでもありません。
もしかすると氏家くん自身が、それに気づいていないだけなのかもしれません。
氏家くんは「まだ落ちきっていない」
氏家くんは、自尊心の高い人物です。
他人を下に見ることで自分を守ることもある。
自分より優れた人を見て、自分には何もないのではないかと絶望する。
決して、最初から前向きな人物ではありません。
でも私は、氏家くんを見ていて「まだ落ちきっていない人」だと感じました。
このままの自分ではダメだということを、奥底では分かっている。
だから生徒会長選挙に出た。
負ける可能性があっても、人前に立った。
そして、自分が抱えていた恥ずかしい感情まで美津未に話した。
本当に諦めてしまっているなら、そんなことはしないはずです。
「何者でもない自分」を認めるのは怖い。
でも、何者でもないことを知らなければ、変わることもできない。
氏家くんは8巻で、そのスタート地点に立ったのではないでしょうか。
これから氏家くんが、美津未や周囲の人間を「上か下か」ではなく、それぞれ違う個人として見られるようになっていくのか。
そして同じように、自分自身のことも誰かとの比較ではなく認められるようになるのか。
8巻を読んで、氏家くんのこれからを見てみたいと思うようになりました。
彼はまだ、自分に自信を持てているわけではありません。
でも、
「このままではダメだ」と思って、自分から変わろうとした。
その時点で、氏家くんはもう少しだけ前に進み始めているのだと思います。

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