漫画を読んでいると、どうしても好きになれないキャラクターがいる。
主人公の邪魔をする。
人の気持ちを考えない。
自分の都合ばかり優先する。
やたらと上から目線だったり、他人を利用したりする。
読んでいるこちらまでイライラして、
「このキャラ、嫌だな」
と思ってしまう。
ところが、不思議なことがある。
そんなキャラクターほど、なぜか記憶に残っているのだ。
好きだったキャラクターの名前は忘れてしまっているのに、
「あの嫌な奴、いたよな」
と、何年経っても覚えている。
なぜだろう。
嫌いなら、忘れてしまってもよさそうなのに。
むしろ「好き」よりも「嫌い」の方が、そのキャラクターを強烈に記憶に残していることすらある。
今回は、『スキップとローファー』の白井と柴本、そして『トリリオンゲーム』の黒龍一真を例にして、漫画に登場する「嫌なキャラ」がなぜこんなにも記憶に残るのかを考えてみたい。
「嫌なキャラ」と「悪役」は同じではない
まず最初に、ここを分けて考えたい。
「嫌なキャラ」と聞くと、どうしても「悪役」を想像する。
主人公と敵対して、悪いことをして、最後には倒される。
そういう分かりやすい敵キャラクターだ。
もちろん、そういうキャラクターも嫌われる。
しかし、漫画を読んでいて本当に「嫌だな」と感じる人物は、必ずしも悪役ではない。
むしろ厄介なのは、
「悪人とまでは言えないのに、なんか嫌な人」
ではないだろうか。
現実でもそうだ。
「あの人は犯罪者だから嫌い」
という関係より、
「あの人、悪い人じゃないんだけど苦手なんだよな」
という関係の方が、圧倒的に多い。
話を聞かない。
人の気持ちを考えない。
距離感がおかしい。
自分の価値観を押し付ける。
本人は普通にしているつもりなのに、こちらはなぜか疲れる。
漫画でこういう人物が出てくると、妙に引っかかる。
なぜなら、
「現実にもこういう人がいる」
と思ってしまうからだ。
そして、そこからキャラクターへの感情が始まる。
『スキップとローファー』の白井と柴本が嫌なのは、「悪人だから」ではない

このことを考えるうえで、『スキップとローファー』の白井と柴本は非常に面白い存在だ。
2人が登場する場面は、物語全体から見れば大きな出来事ではない。
美津未とミカが体育館でバレーの練習をしようとしたところ、1年生が使う日にもかかわらず、3年生の白井と柴本が体育館を使っている。
しかも、2人は美津未たちが来てもすぐには退かない。
美津未が注意しようとしても、まともに取り合わない。
そこに別の先輩がやって来て、白井と柴本を注意することで、その場は収まる。
物語だけを考えれば、ほんの小さなエピソードだ。
しかし、ここで妙に印象に残るのが、
白井と柴本の名前なのだ。
ミカは、この2人の名前をしっかり覚えている。
一方、美津未は自分たちを助けてくれた先輩の名前を覚えている。
ここに、非常に面白い対比がある。
ミカにとっては、
「嫌なことをしてきた人」
が記憶に残る。
美津未にとっては、
「親切にしてくれた人」
が記憶に残る。
この違いは、単純な性格の違いとして片付けることもできる。
しかし、今回のテーマで考えると、もっと面白いことが見えてくる。
人は「嫌なことをされた相手」を覚えている
例えば、道を歩いていて誰かにぶつかられたとする。
相手が何も言わず、そのまま立ち去った。
その人の顔を覚えているかもしれない。
逆に、道に迷って困っているとき、知らない人が親切に教えてくれた。
その人の顔は、意外とすぐ忘れてしまうかもしれない。
もちろん、これは全員に当てはまる話ではない。
ただ、私たちには、
自分にとって嫌だった出来事を強く覚える
という傾向がある。
『スキップとローファー』の白井と柴本の場面も、そこをかなり分かりやすく描いているように思う。
白井と柴本は、物語を大きく動かす悪役ではない。
主人公の前に立ちはだかる強敵でもない。
それなのに、読者の記憶に残る。
なぜか。
それは2人が、
「現実にいそうな嫌な人」
だからではないだろうか。
白井と柴本の「嫌さ」は、派手ではない
白井と柴本が恐ろしい悪人として描かれているわけではない。
世界を支配しようとしているわけでもない。
誰かを破滅させようとしているわけでもない。
ただ、
「自分たちが使いたいから使う」
という態度を取っている。
この程度のことなら、現実にもありそうだ。
学校でも、職場でも、日常生活でも、
「自分たちが先に使っていたから」
「今までこうしてきたから」
「別にいいじゃん」
という理由で、他人のことを考えない人はいる。
だからこそ嫌なのだと思う。
漫画の中だけの特殊な悪ではなく、
「こういう人、現実にもいるよな」
という嫌さだからだ。
そして現実に存在する嫌な人を思い出したとき、そのキャラクターも簡単には忘れられなくなる。
ところが、『スキップとローファー』は「嫌な人」を単純に悪者にしない
ここが、この作品の面白いところだと思う。
白井と柴本の場面だけを見れば、「こいつら嫌な奴だな」で終わる。
しかし、物語全体を見ると、作者が描いているのは「悪い人間を倒す」という話ではない。
人と人が違う。
考え方も違う。
相手には相手の事情がある。
そして、自分が誰かに対して嫌な人間になってしまうこともある。
その複雑さを描いている。
だから白井と柴本についても、
「こんな奴は最低だ」
というところだけで終わらせる必要がない。
むしろ、
なぜこの2人は、こういう振る舞いをするのか?
と考えてみる余地がある。
ここで「嫌なキャラ」の見方が変わる。
「嫌い」は、そのキャラクターの情報を強制的に覚えさせる
ここから、今回の本題に戻りたい。
なぜ嫌なキャラクターは記憶に残るのか。
一つは、
嫌悪感によって、そのキャラクターを強く意識するから
だと思う。
好きなキャラクターが登場すると、
「好きだな」
と思って読む。
しかし嫌いなキャラクターが登場すると、
「またこいつか」
と思う。
「何をするんだ?」
「また嫌なことを言うんじゃないか?」
「次は誰を傷つけるんだ?」
と、無意識に注目してしまう。
つまり、
嫌いだからこそ、目で追ってしまう。
これはかなり面白い。
キャラクターが読者の記憶に残るためには、
「好きになってもらう」
必要はない。
読者の感情を動かせばいい。
怒らせてもいい。
不快にさせてもいい。
怖がらせてもいい。
悲しませてもいい。
そして、
「嫌い」という強い感情も、キャラクターを記憶に残す力になる。
では、黒龍一真はどうだろうか
黒龍一真について触れている記事はこちら(ネタバレ注意)

ここで『トリリオンゲーム』の黒龍一真を考えてみたい。
黒龍一真は、日本最大のIT企業「ドラゴンバンク」を一代で築き上げた巨大な経営者だ。
周囲の成長企業を潰すか、取り込む。
トリリオンゲーム社に対しても、脅威と判断すれば徹底的に対抗する。
この人物の「嫌さ」は、白井と柴本とはかなり違う。
白井と柴本の嫌さが、
「身近にいたら嫌な人」
だとすれば、
黒龍一真の嫌さは、
「こんな力を持った人間とは絶対に敵対したくない」
というものだ。
つまり、同じ「嫌い」でも種類が違う。
黒龍一真が嫌なのは、「人間を数字として見る」からではないか
黒龍一真の怖さを考えると、単純な性格の悪さだけでは説明できない。
彼は巨大な会社を率いる人間だ。
だから、当然ながら経営には判断が必要になる。
どの会社を買う。
どこに投資する。
どこを切る。
誰を利用する。
どこで勝負する。
ビジネスである以上、すべてを感情だけで決めるわけにはいかない。
しかし、その合理性が極端になると、人間は「人」ではなく「使えるか、使えないか」で見られてしまう。
ここに、黒龍一真の怖さがある。
「あなた自身がどういう人間なのか」より、「あなたは自分にとって何の価値があるのか」が先に来る。
この価値観は、白井と柴本の「自分たちが使いたいから使う」という小さな自己中心性とは規模が違う。
でも、根っこにあるものは少し似ている。
嫌なキャラには「自分とは違う価値観」がある
白井と柴本。
黒龍一真。
この3人を並べてみると、共通しているのは「性格が悪いこと」ではない。
もっと根本的なところにある。
それは、
読者が大切にしている価値観と、彼らの価値観がぶつかること
だと思う。
白井と柴本を見て、
「ルールは守るべきだ」
「人に迷惑をかけたら謝るべきだ」
と思う読者ほど、2人の態度にイライラする。
黒龍一真を見て、
「人はもっと対等に扱われるべきだ」
「どれだけ強い会社でも、他人を踏みつけていいわけではない」
と思う読者ほど、彼のやり方に嫌悪感を抱く。
つまり、
キャラクターの嫌さは、そのキャラクターだけで決まるものではない。
読者側の価値観との組み合わせによって決まる。
だから、同じキャラクターでも、
「嫌い」
という人もいれば、
「むしろ好き」
という人もいる。
ここが面白いところだ。
「嫌なキャラ」は、読者自身を映す鏡なのかもしれない
そう考えると、嫌なキャラクターについて考えることは、少し怖くもなる。
なぜなら、
「自分が何を嫌う人間なのか」
が見えてしまうからだ。
例えば、マウントを取るキャラクターが嫌いなら、自分は「人を見下すこと」を嫌っているのかもしれない。
約束を守らないキャラクターが嫌いなら、「誠実さ」を大切にしているのかもしれない。
他人を利用するキャラクターが嫌いなら、「人間関係に損得だけを持ち込みたくない」と考えているのかもしれない。
もちろん、漫画のキャラクターへの嫌悪感だけで、その人の価値観がすべて分かるわけではない。でも、
「なぜ、このキャラがこんなに嫌なんだろう?」
と考えることで、
「自分は人間関係で何をされたら嫌なのか?」
というところまで考えられる。
これは、漫画を読む楽しさの一つだと思う。
そして「嫌なキャラ」は、主人公を魅力的にする
嫌なキャラクターには、もう一つ重要な役割がある。
それは、
主人公の魅力を浮かび上がらせること
だ。
例えば、周囲の人間を損得でしか見ないキャラクターがいる。
すると、その反対にいる主人公の「人を信じる」という性質が目立つ。
自分の利益ばかり考えるキャラクターがいる。
すると、主人公の「仲間を大切にする」という部分が強調される。
つまり、キャラクターの性格は、その人だけでは決まらない。
誰と並んでいるのかによって、意味が変わる。
『トリリオンゲーム』でいえば、黒龍一真のような強烈な価値観を持った人物がいることで、ハルやガクが何を大切にしているのかも見えてくる。
特にハルは、決して「善人」と呼べるような行動ばかりをする主人公ではない。
むしろ、かなり強引だ。
ハッタリも使う。
相手を出し抜くこともある。
それでも黒龍一真と対峙したとき、読者はハル側を応援したくなる。
これは面白い現象だ。
主人公が完璧な善人だから応援するのではない。
「この相手には負けてほしくない」という敵側への嫌悪感によって、
主人公への感情移入が強くなることもある。
「嫌いなのに、もっと出てきてほしい」という矛盾
ここまで考えると、漫画における「嫌なキャラ」の面白さが見えてくる。
本当に嫌いなら、
「もう出てこなくていい」
と思うはずだ。
ところが、読者としては、
「次に何をするのか気になる」
とも思ってしまう。
これは矛盾している。
でも、漫画にとっては非常に強い状態だ。
好きなキャラクターなら、
「もっと見たい」
という欲求が生まれる。
嫌いなキャラクターなら、
「何をするのか確認したい」
という欲求が生まれる。
方向は正反対なのに、
どちらも読者をページの先へ進ませる。
だから作者からすると、嫌われるキャラクターにも大きな意味がある。
ただし、「嫌われればいい」というわけではない
ここは重要だ。
嫌なキャラクターなら、何でも記憶に残るわけではない。
ただ怒鳴る。
ただ意地悪をする。
ただ主人公を邪魔する。
それだけでは、単なる「嫌な奴」で終わってしまう。
記憶に残る嫌なキャラクターには、
「なぜこの人は、こんなことをするのだろう?」
という余白がある。
白井と柴本を見て、
「嫌な先輩だな」
と思う。
そこから、
「でも、こういう人って現実にもいるよな」
と思う。
黒龍一真を見て、
「怖い経営者だな」
と思う。
そこから、
「なぜこの人は、ここまで他人を支配しようとするんだろう?」
と考える。
この「なぜ?」が生まれると、キャラクターはただの嫌われ役ではなくなる。
考えたくなるキャラクターになる。
そして、考えたキャラクターは忘れにくい。
「好きなキャラ」より「嫌いなキャラ」の方が語りたくなる理由
もう一つ、嫌なキャラクターが記憶に残る理由として、
人に話したくなる
ということもあると思う。
「このキャラ好きなんだよね」
という話は楽しい。
でも、
「あいつ、めちゃくちゃ嫌じゃない?」
という話も、ものすごく盛り上がる。
なぜなら、「嫌い」には理由があるからだ。
「なんとなく好き」
は説明しにくい。
しかし、
「この場面でこういうことをしたから嫌い」
なら話せる。
そして、
「分かる。自分も嫌い」
という共感も生まれる。
白井と柴本のようなキャラクターについて、
「こういう人、学校にいたよね」
と話せる。
黒龍一真についてなら、
「こんな経営者が現実にいたら怖すぎる」
と話せる。
つまり、嫌なキャラクターは、
読者の感情を作品の外まで持ち出す力
を持っている。
嫌なキャラは、物語の「温度」を上げる
漫画をずっと優しい人だけで構成すると、どうなるだろう。
おそらく、読みやすい。
嫌な思いをすることも少ない。
でも、物語の中で強い感情が生まれにくい。
そこに一人、「なんだ、この人」と思うキャラクターが入る。
すると、物語の温度が変わる。
主人公が怒る。
仲間が困る。
読者もイライラする。
そして、その後に誰かが助けてくれたとき、
「よかった」
という感情が強くなる。
つまり、嫌なキャラクターは、
読者を不快にするためだけに存在しているわけではない。
物語の中に「感情の起伏」を作る役割も持っている。
嫌なものがあるから、優しさが際立つ。
嫌な人がいるから、良い人の行動が印象に残る。
敵が強いから、主人公の勝利が嬉しくなる。
そう考えると、
嫌なキャラは、物語に必要な「逆方向の力」
なのかもしれない。
結局、「嫌なキャラ」は何が嫌なのか?
ここまで白井、柴本、黒龍一真を考えてみると、「嫌なキャラ」という言葉だけでは、かなり大雑把だと分かる。
身近な人間関係の中で嫌な人。
自分の都合を優先する人。
相手の立場を考えない人。
損得で人を見る人。
圧倒的な力で相手をねじ伏せる人。
嫌われ方はそれぞれ違う。
それでも共通しているのは、
「自分ならされたくない」と思う行動や価値観を持っていること
ではないだろうか。
だから、私たちはそのキャラクターを嫌う。
そして、その「嫌い」という感情が強いほど、キャラクターを強く意識する。
その結果、「好きなキャラ」だけではなく、「嫌いだったキャラ」まで作品の記憶として残っていく。
漫画のキャラクターは、「好き」だけで評価するものではない
漫画を読んだあと、
「このキャラが好きだった」
という感想を持つのは自然なことだ。
でも、それだけでは漫画のキャラクターを語り尽くせない。
「嫌いだった」
も、立派な感想だと思う。
そして、
「なぜ嫌いだったのか?」
まで考えてみると、そのキャラクターが物語の中で果たしていた役割が見えてくる。
白井と柴本のような、身近にいそうな嫌さ。
黒龍一真のような、圧倒的な力と価値観による嫌さ。
その形は違っても、読者の感情を強く動かしていることには変わりない。
そして、強く感情を動かされたキャラクターほど、私たちは忘れない。
まとめ――嫌なキャラが記憶に残るのは、「嫌い」という感情が強いから
なぜ漫画の「嫌なキャラ」は、こんなにも記憶に残るのか。
私は、
「嫌い」という感情が、そのキャラクターを強く意識させるから
だと思う。
好きなキャラクターなら、
「もっと見たい」
と思う。
嫌いなキャラクターなら、
「また何かやるんじゃないか」
と思う。
どちらも、読者の視線をキャラクターに向けさせる。
さらに、嫌なキャラクターが現実にいそうな人物であればあるほど、
「こういう人、いたな」
という自分自身の経験まで呼び起こされる。
だから忘れられない。
そして、もう一つ大切なのは、
嫌なキャラクターは、読者自身の価値観を浮かび上がらせる
ということだ。
白井と柴本を見て「嫌だ」と思う。
黒龍一真を見て「怖い」と思う。
その感情の裏側には、
「人にはこう接してほしい」
「こういうことはされたくない」
「こういう人間にはなりたくない」
という、自分自身の価値観が隠れている。
そう考えると、
「嫌いなキャラクター」というのは、単なる嫌われ役ではない。
読者の感情を映す鏡
なのかもしれない。
漫画を読んでいて、
「このキャラ、本当に嫌いだな」
と思ったとき。
そこで終わらせず、
「なぜ私は、このキャラクターがこんなに嫌なんだろう?」
と一度考えてみる。
すると、そのキャラクターのことだけではなく、自分が人間関係で何を大切にしているのかまで見えてくるかもしれない。
そして、そんなふうに読者の中に何かを残すことができるなら、
「嫌なキャラ」は、実はかなり優秀なキャラクターなのだと思う。
好きになれなくてもいい。
共感できなくてもいい。
それでも、
「忘れられない」
ということには、漫画のキャラクターとして大きな意味がある。
もしかすると漫画の面白さは、
「好きなキャラに出会うこと」
だけではない。
「なぜか忘れられない、嫌なキャラに出会うこと」
にもあるのではないだろうか。


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