「ああはなりたくない」が、最初の一行
職場では空気みたいな存在感。40過ぎで非正規社員の独身男性。ムダ口は少なく、定時になればドライに消える。飲み会にはそもそも声がかからない——主人公の藤井はそういう人間だ。同僚の田中は「10年後、ああはなりたくない」と静かに恐れている。
読者の多くも最初はきっと田中と同じ側にいる。それが鍋倉夫の計算で、1巻はその認識が少しずつ、静かに、しかし確実にひっくり返されていく物語だ。
藤井という人間
藤井は無表情で、自分から感情を明かすことがほとんどない。聞かれれば答えるが、語りたがりではない。にもかかわらず、彼の輪郭はじわじわと浮かんでくる。
絵を描き、陶芸をし、ジグソーパズルを組み、ギターを弾く。どれも特別うまいわけではない。誰かに見せるためでもない。「楽しいですよ」と笑うその顔が、第1話のクライマックスだ。田中が「人生楽しそうですね」と皮肉を込めて言ったのに対して、藤井はまっすぐにそう返す。その笑顔があまりに自然で、田中は言葉を失う。
彼は承認欲求から自由だ。会社の同僚に「一人遊びより友達を作れ」と説教されても動じない。「無理してまで好かれようとは思いません」と矢部に伝える場面では意固地にも見えるが、そこには見栄もなく、恥もない。ただ本心がある。
藤井の表情の変化は乏しい。笑っても口角がわずかに上がる程度で、そのかすかな変化を見逃すと置いていかれる。セリフと表情を同時に読んで初めて分かる場面が多く、ページをめくる速度を自然と落とさせる漫画だ。
各話のキャラクターたち——藤井を映す鏡
1巻に収録された8話はそれぞれ「○○とフジイ」というタイトルを持つ。藤井は物語の主軸にいるが、主に語るのは周囲の人間たちだ。田中の漠然とした不安、石川の孤独と自衛、多田の寂しさ——彼らの内面は鮮明に描かれ、読者は自分に近いキャラクターを見つけながら、その人物を通じて藤井という人間に近づいていく構造になっている。
なかでも石川さんのエピソードは印象的だ。整形とパパ活を繰り返す彼女が、藤井にパパ活を打ち明けるシーンがある。「よくないですよね」と確認する石川に、藤井は「わからないです」と答える。この曖昧な返答が、石川の表情を安堵させる。藤井はジャッジしない。それだけで人はこんなに楽になれるのか、と感じさせる場面だ。
第6話「相馬とフジイ」——1巻で最も好きな話
整骨院で働く相馬は、生きづらい。
謝罪会見の話題についていけず、施術中に院長のまねをして客に話しかけようとしてもうまくいかない。加熱式タバコを吸ったことで怒られ、迷子のセキセイインコのチラシを報告しても「どうでもいい」と一蹴される。相馬の生きづらさは説明されずに積み重なっていく。
その相馬が施術するある客が、「今日は鳥を捜してました」と答えた瞬間、話が動く。それが藤井だった。
迷子のセキセイインコという細い糸が2人をつないで、相馬は初めて会話に乗れた気がした。院長にも褒められた。それだけのことなのに、その小さな喜びが伝わってくる。
帰り道、相馬は生きづらさを思い出しながら鳥を捜していると、藤井が横を全力でダッシュしていく。セキセイインコを追っているのだ。2人で追い詰め、相馬は着ていたジャケットを脱いで鳥に被せて捕まえた。
その時、タンクトップ姿になった相馬の肩に、羽根の生えた犬のタトゥーが見える。頭に輪っかをしている——おそらく、亡くした犬のために彫ったものだろう。しかしこの話はそのタトゥーについて一切触れない。説明しない。ただそこにある。
相馬という人間の優しさは、この一連の行動に全部入っている。生きづらい人間が、それでも鳥を探して、ジャケットを脱いで、安堵の顔を浮かべる。そこには飾りがない。
インコを交番に届けて、2人は別れる。藤井が「おやすみなさい」と言い切る頃には、相馬はすでに遠くを歩いていた。それでも、藤井の顔には微笑みがあった。
この話が1巻で最も好きなのは、相馬の生きづらさが誰かに救われるわけでも、解決されるわけでもなく、それでも夜の街で鳥を追いかける相馬が、ただ優しい人間として描かれているからだと思う。藤井と相馬は友人になるわけでも、また会うわけでもない。ただ一夜、迷い鳥を通じて交わった2人の間に、確かに何かがあった。
「路傍」の人に惹かれる理由
タイトルの「路傍」とは、道端のことだ。誰も立ち止まらない場所にいる人間。それが藤井の立ち位置だ。
しかし読み終えると、立ち止まらなかった自分の方が見えていなかったのだと気づかされる。藤井は田中を変えようとしない。石川を説教しない。矢部に媚びない。多田を引き留めない。相馬のタトゥーには触れない。それでも、藤井の周りにいた人間たちは、何かを受け取って歩いていく。
コスパ、マウント、承認欲求——そういう言葉で埋め尽くされた時代に、藤井はそのどれにも乗っていない。乗らないことで、かえって際立つ。
「分かってるのは自分だけでいい」という生き方を、こんなに静かに、こんなに豊かに描いた漫画を、私はあまり知らない。


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